吉田正記念オーケストラ
指揮者のひとり言 パート1
録音にて
組曲録音風景から

歌謡曲とは・・・
オーケストラ演奏に賭ける夢!


僕は昭和25年東京の下町で生まれ、幼児期には岡晴夫や小畑実の歌などを聞いて育った。

戦後の復興がようやくひと段落した頃であったが、板チョコレートはまだ貴重品で歯磨きのようなチューブ状の粗悪品で満足していた。洗濯はたらいと洗濯板、冷蔵庫は氷冷蔵庫という時代であったが新たに登場した街頭テレビと映画に加え歌謡曲が娯楽の中心であり、幼い僕が下町の庶民を聴衆にして風呂屋の前の即席ステージで春日八郎のお富さんなどを歌うとアンコールの連続であった。美空ひばりと比較する訳にはいかないが、イメージ通りの声が出せない現在とは違い、自由自在に歌えたので下町ではちょっとした人気豆歌手というところであった。

その頃聞いた歌謡曲はパチンコ屋から洩れ聞こえる曲でもすぐ覚えてしまい、50年あまり経過した今、厳密に数えた事はないがワンコーラスであれば歌詞を記憶している曲は1千曲は下るまいと思っている。言わば下町の歌謡曲小僧であった。

神戸一郎の「銀座9丁目は水の上」を聞き、初めて銀座に行った時に実際は八丁目までしかないことを知ったのは幼児期の懐かしい思い出であり、水原弘の「黒い花びら」や「黒い落葉」を聞き、黒い樹木をさがした事もあった。「有楽町で逢いましょう」が流行れば皆、有楽町駅前で待ち合わせ、コロンビアローズの東京のバスガールがヒットすれば世の女性達は濃紺の制服に憧れるといった具合で歌謡曲が庶民生活に与えていた文化的、社会的な影響は現代に比較すると極めて大きいものであった。まして海外旅行が大衆化されていなかった時代に津村謙の「上海帰りのリル」、灰田勝彦ー「ジャワのマンゴ売り」、渡辺はま子ー「サンフランシスコのチャイナタウン」、森山加代子ー「月影のナポリ」や橋幸夫ー「シンガポールの夜は更けて」
注*(吉田正東京シンフォニー第三番の第二楽章の冒頭に演奏される)など海外をテーマに大衆に夢を与え続けた歌は数限りなくある。


僕にとって大きな衝撃は巨人軍に入団した長島茂雄の活躍、映画での石原裕次郎のデビュー、そして鶴田浩二、フランク永井、松尾和子の歌であった。ナイトクラブ、京浜第二国道、有楽町、西銀座、キャデラック、箱根スカイライン、テイルランプ、カクテルコーナー、ネオンの海など少年時代の僕にとって眩しいように都会の煌めきを連想させる歌詞に乗せた吉田メロディーとの鮮烈な出会いであった。

野球と音楽に明け暮れた中高校生時代、歌謡界は橋幸夫など、いわゆる御三家を中心に青春歌謡が全盛であった。野球では投手をしていたが、後楽園球場のブルペンで国鉄時代の金田投手の投球を見た時に、とても自分の球ではプロ野球選手になれない事を痛感した。そのため音楽の道に進もうと桐朋学園斉藤秀雄指揮教室の門を叩き、高階正光先生には特別可愛がってもらった。

この頃から成功と挫折の繰り返しになるが、怖いもの知らずの強みから憧れの小澤征爾のような指揮者になりたいという志しを持ち、昭和49年の春、オーストラリアに出発する事になった。クラシックに傾倒して出国日まで決まった後でも、歌謡曲小僧時代を引きずっていた僕はあるレコード会社の関係者に歌手にならないかと勧誘された時は大いに迷った。

オーストラリアに向かった後も 流行歌手になりたいという願望を断ちがたかった僕は横浜からシドニーまでの一ヶ月間の航路で豪華英国客船のステージに立ち、自分で書いた伴奏譜を英国人の楽団に配り、フランク永井の歌を連日のように歌いまくった。西洋人ばかりの船客に日本語で歌謡曲を歌ったのだが、ブラボーの連発であったので吉田メロディーは国際的にも通用すると実感した事を思い出す。

僕がメルボルンで生活を始めた当時の大卒サラリーマン初任給は3万円程度であったので、友人たちから頂戴した餞別の25万円は当面の生活費として十分な金額であろうと思っていた。西洋食に順応出来なかった僕は必然的に中華、和食レストランに行く事になる。 ところが、両替レートは1豪州ドル400円であり、中華ソバや寿司が6ドルだから2400円であった。現在の物価に換算すると1万円以上のラーメンという事になる。オーナーの目を盗み、一人前の料金しか払わない僕に満腹になるまで寿司をサービスしてくれた板前さんには今でも感謝している。このように日本経済が弱かった頃であるから手持ちの生活費は一ヶ月も経たないうちに底をつき始めた。そこで友人が多額の賞金がもらえると、僕に内緒で豪州放送ののど自慢番組に応募してくれた。

日本の歌謡曲を歌い、出演するつもりになったが、指揮者としての僕を評価してくれていたユダヤ人音楽事務所社長が指揮者としてデビューを目前に控えた時期に出場してはいけないと必死に止めに入り豪州テレビのスタジオに向かっていた僕は寸でのところで同行の友人に代わって出演してもらった。後日談だが、その友人は数年後、帰国してサーカスという歌謡グループの一員となり紅白歌合戦にまで出場する人気スターになった。

歌謡曲への未練から吹っ切れた僕は次々とチャンスをつかんでいった。人間の一生の中できらめきを持った青春期は周囲の人に引き立てられる運を持つものだと思う。ある人の紹介でオーストラリア空軍音楽隊でこうもり序曲を振った僕のコンサートをたまたま聴いていたメルボルン音楽協会理事長のブラッドフォードさんが突如、無名の僕をフランクストン交響楽団の常任指揮者に抜擢してくれた。

編成は50人程の小編成オケであったが本格的なオケを日本で振った事の無かった僕にとって英国の伝統を持つ地方オケからいろいろ教わる事が多かった。マイヤー財団の主催する音楽祭に出演した時に【当代最も期待される若手音楽家】に選定された結果、財団のマイヤー理事長に可愛がられ傘下のマイヤー百貨店と提携する伊勢丹の小菅社長にも紹介され、日豪の両方から基金を頂戴する事になり寿司やラーメンを心置きなく食べられる身分になった。


30代の頃
若き日の頃
その後、シドニーのオペラハウスに出演したり、ビクトリア州立響の指揮者にも就任したがメルボルン芸大で指揮法を教えたりオケを振った事が同世代の豪州人との交わりという意味で最もはつらつと青春を満喫し、かつ英会話の上達にも大きく役立った気がする。日本国籍である僕を公費で東南アジアに派遣してくれる懐の広さがオーストラリア政府にはあった。

そのおかげで1975年には台湾に行き蒋介石総統の追悼演奏会でベートーベンの「英雄」を振らせてもらった。日本が中国を承認したため台湾とは国交が途絶えた直後であったので日本で大きく報道される事はなかったが僕の心の中では密かに誇りを持っている出来事であった。

楽しかったオーストラリアでの生活も当時メルボルン響の常任指揮者であった岩城宏之氏のアドバイスによって終止符を打つ事になった。つまり若いうちにぬるま湯に浸からずにクラシックの本場であるヨーロッパで研鑽を積むようにとの助言であった。そこで僕はオーストラリアで築き上げたポジションをすべて投げ出し、日本を飛び出した原点に戻り、ヨーロッパに旅立った。


ウイーンに着き早速、本場のオペラを鑑賞すべく国立歌劇場に行った。ようやく習得した英語も欧州では無力で、ドイツ語やイタリア語の氾濫するオペラはまったくチンプンカンプンであった。しかし立見席でオペラを観ている子供たちはまるで鞍馬天狗や裕次郎の映画を観る様にゲラゲラと楽しそうに笑っているさまを見た時に日本と欧州の文化の成熟度の違いをまざまざと見せ付けられた。

また、アムステルダムでイギリスの地方都市のオケを振るサイモン・ラトルを初めて見たときは大変なショックであった。現在ベルリンフィルの音楽監督であるラトルだから優秀で当然なのだが、井の中の蛙であった当時の僕にとって自分と同世代で自分より優れた才能を持った指揮者がヨーロッパにいた事が驚きであったのだから、今振り返れば自信過剰もいいところで恥ずかしい思いがする。


ヨーロッパの伝統には太刀打ちできないと自信喪失した僕は欧州からの帰国途中に東南アジア諸国で昭和30年代の日本歌謡曲を聞き、目からうろこが落ちる思いがした。日本歌謡曲を東南アジアの人々がまるで自国の音楽文化の如く愛着を持っている事を知り、和洋折衷の産物が世界に誇れる優れた芸術である事を認識した事で僕の欧州コンプレックスも解消した。つまり、日本人なのだから自分達の歌謡曲文化のスタイルでクラシックも演奏すれば良いのであると割り切る事が出来た。

これ以後、1976年からの10数年間は概ね東南アジアや日本国内のオーケストラに活動拠点を移し更に人に引き立てられ数々の貴重な出会いや体験を積み重ねる事となった。

豪州政府からの派遣でシンガポールにオーケストラを設立していた時期に福田赳夫、中曽根康弘という歴代の首相が次々と東南アジアを訪問し、ともに経済に加え文化交流の意義を外交のテーマとした。特に中曽根総理には日本大使数人分の文化面における功績であるとの評価を頂き、日本人である僕は日本国政府から公式派遣された身分でシンガポールフィル初代の音楽監督に就任した。

その後メトロ・マニラ響の常任をしていた時も中曽根総理公式訪問の演奏会を指揮する事になった。その結果、僕は東南アジア諸国でより一層、精力的に棒を振るようになった。しかし欧州文化の伝統を吸収、勉強する事を放棄した訳ではなかった。そのような時期に自分でも呆れるほどの幸運な出会い、引き立てが数多くあった。


シンガポール芸術祭のスポンサーはモービル石油であり、同時にニューヨークフィルの後援企業でもあったためモービルの重役がニューヨークフィルに僕を推薦してくれた。バーンスタインは残念ながらもうニューヨークには居なかったが、若きアバド、マゼール、そしてピエール・ブーレーズなどの音楽解釈を短期間ではあったが、ゲスト副指揮者として体験、勉強出来た事は幸運であった。

また、三木総理の息子で僕と同年の三木格君(僕は彼が政治家に最適なキャラクターだと思っていたが親父の後継者にはならずに経済人として活躍している)の南平台の私邸におけるパーティーで豪州から帰国した三笠宮殿下(通称、ヒゲの殿下)にお目にかからせて頂いた。殿下には時折、演奏を聴いて頂いたが、この度2003年9月山形寒河江市で僕の手兵ともいえるイズミール響の演奏で吉田正作曲「東京シンフォニー3番」を聴いて頂く事になった。

皇室といえば僕のメルボルン時代のアパートのすぐ近所に現在の皇太子殿下が住んでおられたが、吉田正記念オーケストラの演奏をやはり2003年11月東京フォーラムで聴いて頂く事になっている。


三木邸のパーティーではもう一人、僕に大きな幸運をもたらせてくれた英国ジャガー自動車の副社長と知り合った。そのモーガン副社長がヨーロッパ楽壇の大立者であり、第二次大戦後ナチスの疑いなどで仕事が無く不遇であったカラヤンをロンドンに呼び寄せフィルハーモニア管弦楽団をカラヤンのために創立したワルターレッグ氏を紹介してくれた。

レッグ氏は既に現役を引退、南フランスの別荘で奥さん(著名なソプラノ歌手であったエリザベート・シュワルツコップ)と静かに暮らしていた。レッグ氏には大変可愛がられカラヤンの音楽、演奏法などをカラヤン本人から教わるよりも事細かく教えてもらった事は大変な財産となり、僕の音楽観として心の奥に沁み付いている。

日産自動車の横山副社長も僕を引き立ててくれた忘れがたき恩人の一人である。1980年代の後半は日本のオケで当時の人気歌手や宝塚のスターをゲストにしてクラシック以外のファンを集客し、シンフォニーも映像を交え、いわば生で見て聞く、名曲アルバムのようにオーケストラを大衆化しようという企画のスポンサーに日産自動車がなってくれた。この試みの基本的なコンセプトは現在の吉田正記念オーケストラの活動に繋がったと思っている。


イズミール交響楽団
イズミール交響楽団と共に
1898年日本ートルコ修好100年を記念して外務省の派遣でアンカラ芸術祭に出演、プレジデンシャル交響楽団を指揮した事を契機にトルコのオケとの活動が始まった。ある意味で東洋から西洋の舞台に登ったという感もあった。トルコは、15世紀に浸入してきたオスマン帝国人と先住のギリシア・ローマ系の人々が混血する事で東西文化の融合もしたが、文化的には東ローマ帝国の遺産、伝統を色濃く残し、特にオーケストラは東ヨーロッパ独特の深みのあるサウンドを持っている。その中でもエーゲ海に面したイズミール交響楽団との相性が僕にとって特に良く、名誉首席指揮者に就任してから数回にわたり日本に連れてきた。2000年日本ツアーのプログラムを検討している時、イズミール響のある理事がブラームスのハンガリア舞曲のような親しみ易い日本の民族音楽は何か?と問われたが、あまりその類の曲がわが国には存在しないので悩んでいた。


その頃、幼年期から憧れ尊敬していた吉田正先生が亡くなられたのでご焼香に伺った際に吉田未亡人と意気投合した結果、吉田メロディーを交響組曲に編曲しようという気宇壮大な計画を約束してしまった。

歌謡曲の中でも吉田メロディーは海外にいた僕の心の支えであったのでイズミール響の来日公演で演奏するという事を欣喜雀躍して喜んではみたが、指揮者としての経験しかない僕にとって吉田メロデイーを元に交響曲的なスコアを書く事は至難の業であった。刻々とオケの来日時期が迫り困り果てた時に吉田先生のメロディーをそのまま素直に書けばよいのだと気付いた。それは、欧州の文化の奥行きに圧倒され辿り着いた香港や台湾で吉田メロディーを聴いた時の感動をそのままに、日本歌謡曲への感謝の気持ちで書き上げた。その結果、完成した「東京シンフォニー第一番」をメインにしたイズミール響の日本公演は大成功で録音したCDも2000年度レコード大賞の企画賞を頂戴した。このとき僕は30年に亘る海外での音楽活動の集大成の結果、吉田メロディーを和洋折衷芸術として、その真価を国内のみならず海外に向け、オーケストラ演奏で問う事が僕の使命であると実感した。慕情やムーンリバーなどに代表される海外のポピュラー音楽は歌、演奏の両面で親しまれている。


しかし、日本を代表するポピュラー、つまり歌謡曲は歌が無いと成り立たない。そこで「東京シンフォニー」は第二番、三番と製作を続ける事で膨大な数の吉田メロディーを管弦楽にして後世に保存出来、また吉田メロディーファンの皆様に聞いてもらう事で吉田メロディーが永遠のポピュラー音楽になる近道となる。そのためには国内にもオーケストラが必要となり、吉田正記念オーケストラが設立される運びとなった。僕の音楽人生のルーツ、歌謡曲小僧であった経緯からして自分の音楽家としての後半生を吉田メロディーに捧げるという事は自分にとって男の本懐ともいえる。しかし、ヨーロッパで現ベルリンフィル指揮者のサイモン・ラトルを見た時に味わった挫折は今でも臥薪嘗胆、心の奥にしまい込んでおりヨーロッパ楽壇への執念、情熱や未練もあった。その時、僕のトルコでの実績を高く評価してくれたプロモーターを通じロシアを含む東ヨーロッパ各国の主だったオーケストラのトップ奏者が集合して結成される東ヨーロッパ連合オーケストラの常任指揮者に指名され就任の打診が来た。現状では無名だが、近々にはベルリンフィルと同等の評価を受けるかも知れないこのオーケストラと仕事をしたいという誘惑による心の葛藤は大きく、正直なところ大いに迷った。


ヨーロッパに行こうかと迷っていた僕を引き止め、日本残留を決断させたのは既に全国ツアーを開始していた吉田正記念オーケストラの聴衆であった。時には遠い山村でも演奏する。その時あたかも野良仕事を終え、会場に駆けつけてくれたような風体のお婆ちゃんが初めて聞いたオーケストラによる吉田メロディーを嬉しそうに聴き、口ずさむその表情を見たときに僕は日本人としてこの国で吉田正記念オーケストラとともに生きていく事を決心した。

もうひとつ大きな理由がある。それは若く優秀な奏者たちである。皆、僕と同じようにクラシックを勉強して演奏家になった連中だが大衆のために親しみ易い作品を演奏する喜びを感じ、年配が多い聴衆の感動に共感してくれるメンバー達は僕の財産であり、彼らの演奏した吉田メロディーのCDを日本のポピュラー音楽として何時の日か世界中の高級ホテルのBGMなどで聞く事が出来るという夢をみている。若く優秀な吉田正記念オーケストラのメンバーに将来を委ねたいから僕は日本に残った。


台湾バナナや明治や森永のキャラメル、板チョコがご馳走であった僕も50歳を過ぎて煌いていた青春時代のように先輩達に引き立てられる強運も無くなった。でも、今の僕には全国の至る所に吉田メロディーを聞きたい聴衆がいる。そして若い演奏者たちがいる。それで十分である。ブラームスやベートーベンも良いが「寒い朝」「有楽町で逢いましょう」「再会」そして「異国の丘」などの棒を振るときに感じる無常の喜びは何だろう?それは吉田正先生と吉田メロディーによって引き立てられていると言えるのではなかろうか?それならば僕はまだ青春の最中に生きているとも言える。力尽きるまで吉田メロディーの棒を振り、日本全国、すべてのホールで公演して大勢の皆さんに楽しんで頂く事が僕の夢であり、責任だ。


吉田正記念オーケストラ初代音楽監督
大沢可直