吉田正記念オーケストラ



 吉田正記念オーケストラ プロフィール



国民栄誉賞の作曲家故吉田正の作品の真価は歌手によって十分に再現される。それで十分というのがこれまでの常識であったが、吉田メロディの類い稀な資質を真の音楽として発揮させるために別の角度から光をあて、クラシックでも大衆音楽でもないサード・ストリーム(第三の音楽)を確立させ、半永久的に演奏する目的で2001年設立されたのが「吉田正記念オーケストラ」であり、吉田正未亡人の主催により運営されている。  またわが国には一般大衆、特に中高年に親しまれる軽音楽を専門とするオーケストラ企画、演奏がないことから歌謡曲(吉田メロディー)をクラシックと融合させた「吉田正交響組曲」を創り上げ、異なるジャンルの音楽の架け橋を生み出したパイオニアとなった。
その吉田正作品を再構築したのが、指揮・編曲者である大沢可直である。
2000年には、「有楽町で逢いましょう」「寒い朝」「異国の丘」など十数曲から構成され、トルコ国立イズミール交響楽団の演奏による「吉田正交響組曲(東京シンフォニー)」の全国ツアーとCD録音が各方面から大きな評価を得る。その業績から日本レコード大賞企画賞を受賞。 その東京シンフォニーの録音は第2番以降、吉田正記念オーケストラによって引き継がれ現在は第6 番まで収録され、それら6枚のCDはビクターエンタテインメントから発売されている。
吉田正記念オーケストラの魅力の一つは、流行に左右されない独自のポリシーを打ち出したレパートリーである。クラシック化された歌謡曲から童謡唱歌、映画音楽、ラテン、シャンソンと、主に日本文化を中心と構成された企画に独特の音楽技法を取り入れることから、他では類を見ない企画に大衆の支持は拡大している。またアルフレッドハウゼ楽団を凌ぐ大規模編成による歌謡曲タンゴシリーズも既に3枚のCDをリリース、2作目では2006年度日本レコード大賞企画賞、2度目の受賞を受ける。哀愁溢れる吉田メロディが歯切れの良いバンドネオンの刻みと共に「シンフォニックタンゴ」へと変貌する斬新な企画である。
文化事業の一環として2001年のフランス公演を皮切りに、シンガポール、マレーシアなどで海外公演を頻繁に実施している。和洋折衷の芸術ともいえる歌謡曲をオーケストラによる演奏という形で海外に紹介する国際文化貢献も吉田正記念オーケストラ運営の理念の一つである。


吉田正記念オーケストラについての記事、コメント等


昨年惜しまれつつ他界した音楽評論家の故伊奈一男氏は「第三の音楽」という論文の中で以下のように述べている。

〜純音楽(クラシック)が「上」で大衆音楽(ポピュラー音楽)が「下」という評価が導き出されるとしたら、それは基本的に間違った認識なのである。〜中略〜だから優れた演奏家同士の間ではクラシックとポピュラーの人的交流も行われ、レパートリーの共有だって可能になってくる。〜中略〜吉田正記念オーケストラの誕生は、正にそれを実証するための素晴らしいチャンスなのである。 吉田正作品の真価は歌手によって十分に再現される。それで十分というのがこれまでの常識であった。でも、それだけでは勿体無いじゃないかと痛感したのが指揮者大沢可直である。吉田正作品を再構築してクラシックとポピュラーという二つの音楽の架け橋を作りたい、それによって吉田作品に別の角度から光を当てて新しい美しさを見出したいというのが彼の真の目的だと思う。〜中略〜大沢の業績は吉田正が作品を通じて何を表現したかったのかを模索し、そのメロディーを組み立てることでさらに美しい世界を創造しようという意図だと判断したい。ここには純(クラシック)でも大衆(ポピュラー)でも無い第三の音楽が生まれる可能性を期待してもよさそうだ。〜後略




吉田メロディーがオーケストラ演奏で世界のムード音楽になった!!

常陽新聞に今瀬文也氏が「吉田作品を聴く」という副題でコラムを書いている。

前略〜吉田正の曲がクラシックに生まれ変わったのである。普通のクラシックと同じで四楽章から成り立っている。
この第一楽章は「街のサンドイッチマン」がメインテーマで、行進曲風にアレンジされている。フランク永井の「このみち」松尾和子の「小さな酒場」がその後登場する。歌謡曲がクラシックに変貌したのである。吉田正の作品をただメドレー式に演奏すると思っていたので、驚くばかりであった。指揮の大沢さんは若い人たちに伝えるためには、クラシックの形が一番という。
第二楽章は都会の朝昼晩の作品が中心で、第一楽章の悲哀を受けているが「ロンドンの街角で」−小畑実、「赤毛の女」−三田明、「東京しぐれ」−フランク永井、「東京詩集」−鶴田浩二が流れる。この時代は都会の生活に地方の人があこがれ、上京し悲哀を感じるものが多い時代であった。
第三楽章は明るい青春時代の曲でまとめられている。「美しい十代」−三田明、「恋のメキシカンロック」−橋幸夫で起承転結の転の部として、モーツァルトの曲を聞いている気分にさせられた。
第四楽章は今まで登場したメロディーが何回か現れ、中間に橋幸夫の「想い出はリビエラの雨」が入る。大沢可直さんは一青春、人生の甘さと情熱への後悔に満ちた未練の表現一という。そして、名曲「いつでも夢を」で人生の勝利を描いている。
〜中略〜オーケストラは、吉田正の名曲を東京シンフォニー第何番としてCDを出している。唯一のムードオーケストラの永久不滅と発展を祈っている。




「クラシック私だけの名曲」 という新潮社から出版された宮城谷昌光氏の著書に吉田正作曲 交響組曲「東京シンフォニー」が取り上げられ以下のように紹介されている。

〜中略〜第四楽章の編曲(編曲 大沢可直)はみごとなものである。ロシアの曲かと思ってしまう。 そういえば吉田正はシベリアに抑留されていた。この組曲は雄大なスケールを持ち、明るく、哀しく、美しいものである。〜と記載されている。




”忘れえぬ人” という熊倉雄三氏の著書に「夢と消えたビクター交響楽団と近衛秀麿」という大変興味深い一項があるので要旨を簡略に記載いたします。


音のビクターというキャッチフレーズで知られるビクターの社是は文化に貢献、社会に奉仕という事から著者の熊倉氏(ビクター社員)は昭和37年ビクター交響楽団設立を目指し近衛秀麿氏と半年に渡り運動した苦労話が書き綴られている。

昭和37年当時の東京ではN響、東響、日フィル、東フィルの4団体のみが活動しており東京都交響楽団、読売交響楽団はもとより地方オケの雄である札幌交響楽団、名古屋フィル、九州交響楽団、宮城フィルなども、まだ設立されておりませんでした。
そこで、夢と消えたビクター交響楽団は生の音楽を聴く機会に恵まれない地方の聴衆のために全国巡回ツアーを基本に実施計画が立てられた。

運営予算は詳細にわたり作成され、収入予定の項目に助成金があり、近衛秀麿氏が東京都知事に掛け合った結果、東京都と日本ビクターがほぼ折半する形で予算案が作られた。
後日、このビクター案が当時のビクター社長の裁断の結果、不成立に終わったため、この時の助成金案を基に東京都交響楽団(都響)が設立された。
また、近衛氏は在京の優秀な奏者をビクター響のために揃えていたので、このトップ奏者たちを束ね読売日本交響楽団(読響)が設立された。 つまり、夢と消えたビクター交響楽団の企画から日本を代表する読響、都響という2大オーケストラが誕生したという秘話である。

昭和37年、ビクター交響楽団の構想は幻と消えたが、ビクター専属の50年間に多くのヒット曲を作った吉田正の作品を和洋折衷の芸術としてオーケストラで演奏し、全国ツアー、録音等を活発に行っている吉田正記念オーケストラはまさに平成の現代に蘇生した幻のビクター響のような存在ではないだろうか!!と吉田正記念オーケストラ事務局として熊倉氏の著書を拝読した結果、奇遇、奇縁を感じる次第である。